「四季に想い、式に思う」
ゴスペルライフ 牧師 吉野尚文
梅雨が明けて初夏を迎えると、日本には四季があることを実感します。季節の変り目は、体調を崩しやすい時期で、ご年配の方の訃報をお聞きする事もあります。お葬儀、法事に列席する時、「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者が、それを心に留めるようになるからだ。」(伝道者の書7:2)という聖書の言葉を思います。
私達は「縁起でもない」と言って、死の問題を避けようとします。しかし、聖書は「死に直面して考えるように」と勧めています。聖書は、何千年も前から「終活」を取り上げているトレンディーな読み物なのです。あなたも、生涯に一度ぐらいは聖書を読んでみませんか。初めての方には読みにくい聖書を、分かり易く説明してくれる所が教会です。
初めての時は少し勇気がいりますが、思い切ってドアを開けてみて下さい。皆様のお越しを心からお待ちしています。
「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」
これは聖書の中のたとえ話に登場する放蕩息子のセリフです。「お父さん」は天の父なる神、「放蕩息子」は自分勝手な私たちの姿です。私たちを愛しいつくしんでくださる神の存在を知らないときは、父を無視して自分中心の人生を歩んでいました。あるとき人生に行き詰まり、罪深い自分の本当の姿と、それを赦し受け入れてくださる父の愛に触れ、父と共に歩む人生に変えられました。
「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」今も天の父は、放蕩息子(娘)を待っています。あなたを待っています。責めるためではなく、愛しいつくしむために。この父の愛の中で人は変えられ、安心して落ち着いた人生を歩むことができます。
ぜひこの父の愛を知ってください。